各国の人々との交流を通じて肌で感じたことは、人間の善性でした。そのことを、このブログを通じてお伝えしたいと願っています。

ファクスとの遭遇

ロサンゼルスへ

1976年10月初旬にニューヨーク本社へ戻った私は、日本での内部監査報告書を作成した。それが終わると11月から翌1977年1月末までロサンゼルスへ。シンガーミシン傘下のアメリカ軍下請け工場の年度末会計監査をPMMロサンゼルス・オフィスが担う中で、そのサポートをするよう命じられたのだ。

このブログの43回目『グァム島へ』で書いた通り、PMMとは当時全米8大監査法人のうち最大だったPeat Marwick Mitchell & Co.のこと。現在の世界4大監査法人KPMGだが、当時の略称として「PMM」と表記させていただく。そしてこのPMMから「2年後にホノルル・オフィスに戻ることを条件に、それまでの2年間をグアム出張所で働いてくれないか」とのオファーを受けたことも前出の回で述べた。この申し出を受け、グァム島で働くことになったのだった。1972年のことである。

その後ロサンゼルス・オフィスで働くつもりが空きがなく、シアトルに行くことになった次第だが、2年後にPMMロサンゼルス・オフィスの公認会計士と一緒にシンガー社の会計監査の仕事ができたことには満足した。

数分間で大陸横断

年度末会計監査を命じられたシンガーミシン傘下のアメリカ軍下請け工場は、ヴェニス・ビーチの側のマリナ・デル・レイに近く、近辺にはロサンゼルス空港があった。工場近くのモーテルに泊まり、レンタカーで通勤した。

ある日、ニューヨーク本社から監査の進捗状況を問い合わせる要請があった。その報告は郵送ではなくグレンデールのオフィスからファクスで送ってほしいとのことだった。グレンデールはロサンゼルス北方15kmの、工場の親会社がある町だ。

当時はテレックスの時代で、ファクスを使うのはこの時が初めてだった。自分の手書きの資料がロサンゼルスからニューヨークまで、コピー機と同じような操作で数分のうちに届いてしまうことには度胆を抜かされたものだ。

2月にニューヨーク本社へ戻った際、その10枚のファクスを見せてもらった。私は青色インクのペンを使ったのに、届いた文書は茶色で印字されていた。ファクス黎明期で必ずしも画質は高くなかったが、コミュニケーションの新時代が訪れたことを実感した。

 

にほんブログ村 海外生活ブログへ
気に入っていただけたら上のボタンをクリックお願いします。にほんブログ村に参加中です。

コメントを残す



WordPress.com で次のようなサイトをデザイン
始めてみよう