各国の人々との交流を通じて肌で感じたことは、人間の善性でした。そのことを、このブログを通じてお伝えしたいと願っています。

グアム島へ

失業の原因を作った「旧敵」からのオファー

MBA取得を目指してハワイ大学大学院への入学準備をしていた1972年8月、予期しない事態が起きた。大学卒業時に当時のアメリカ8大監査法人のうち、Haskins & Sells(現在の世界4大監査法人デロイト・トウシュ・トーマツの前身。H&Sと略称)とCoopers and Lybrand(現在の世界4大監査法人プライスウォーターハウスクーパース)から内定をいただいたことは前々回書いたが、同じく8大監査法人のうち最大だったPeat Marwick Mitchell & Co.(現在の世界4大監査法人KPMGだが、当時の略称としてPMMと呼ばせていただく)から「2年後にホノルル・オフィスに戻ることを前提に、それまでの2年間をグアム出張所で働いてくれないか」とのオファーを受けたのだ。

前回書いたH&S社のハワイ島ヒロ市出張所で私が職を失った要因となったのは、実はこのPMM社のヒロ市出張所に顧客を奪われたことにあったのだ。私の失業の原因を作ったライバル会社から、今度は「ウチで働いてくれ」との要請を受けたわけだ。これにはビジネスの世界の厳しい現実を思い知らされないわけにはいかなかった。だがこのことで、大学時代の目標だった公認会計士への再チャレンジに意欲が増したことは否めない。そこで公認会計士の国家試験に合格→監査法人での2年間の会計監査を経験→米国公認会計士になる――このルートを目指すことにして、グアム島へ向かうことにした。グアムにはチャモロ人の美人がいるとも聞いていたし……。

前年1971年のグアム島の人口は85,728人。現地人のチャモロ系が37%、フィリピン系が30%、ヨーロッパ系アメリカ人が7%、その他の人種が26%という構成比だった。1950年にグアムはアメリカ合衆国の準州となり、現在もそれは続いている。ちなみにハワイがアメリカ合衆国の信託領土から50番目の州になったのは1959年だ。

 

日系企業の案件を担当する

私がグアムに赴任した1972年には、「日本から一番近いアメリカの玄関」との謳い文句で年間10万人の日本人がハネムーンでグアム島にやってきていた。そのため日航ホテルやホテル・オークラ、リーフホテル、第一ホテル、東急ホテル、藤田観光ホテル、カクエイホテルといった日本資本のホテルがグアムに進出してきた。ホテルだけではなく、東急不動産や東急建設はグアム島で住宅を建てて販売した。

日航ホテルやホテル・オークラ、東急ホテル、カクエイホテル、東急不動産、東急建設の会計監査は私が担当することになった。クライアントに請求する会計監査費用の予算を決め、中間監査、年度末監査を経て独立監査人の意見書を作成する。すなわち独立監査人として、クライアントの財務諸表の数字が妥当か否かの意見を述べるのだ。この意見書が、クライアント企業の財務諸表を採用する銀行や会社の株主、アメリカの行政機関の判断に大きな影響を及ぼすのだから、責任は重大だ。若いうちに、このような仕事に就けたことは、私にとってラッキーだった。

日本企業の社員たちも、若い単身赴任者が多かった。日本企業も1970年代から海外に目を向けて若手社員にも海外で働くチャンスを与えたことが、経済大国日本を築き上げたと思っている。週末には彼らのアパートへ遊びに行き、小学生以来ご無沙汰だった日本の漫画本を読みふけったことも今となっては良い想い出だ。

 

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