各国の人々との交流を通じて肌で感じたことは、人間の善性でした。そのことを、このブログを通じてお伝えしたいと願っています。

入社7カ月で失業の憂き目に

競合に顧客を奪われ……

前回述べたように、ハワイ大学を卒業した私は1971年9月にHaskins & Sells(H&S)のハワイ島ヒロ市出張所に赴任した。オフィスのトップはヨーロッパ系アメリカ人のプリンシパルであり、より上位のパートナーはホノルル・オフィスのパートナーが兼任していた。社員数はプリンシパル+私を含めた5名の監査人+1名の秘書の7名で、新入社員は私だけ。父がヒロ本願寺に転勤していたので、オフィスには両親の家から15分歩いて通った。

H&Sでは3人の公認会計士の下で、主にハワイ島全土にあるサトウキビ農園の監査を行なった。他にはレンタカー会社や、キラウエア火山の噴火口が目の前に見えるボルケーノ・ハウス・ホテルの監査も担当した。

だが入社7カ月後、1972年3月末に私は失業者となった。サトウキビ農園の監査の仕事を競合の監査法人に取られたことが理由だった。プリンシパルからは、すまなそうに、こんな言葉をかけてもらった。

「キミの仕事に満足していたが、競合にクライアントを取られてしまい社員を減らさなくてはならなくなった。本当はキミを犠牲にせず新入社員を雇わない方向で行く考えだったが、このオフィスで以前働いていた会計士が州兵でもあったため、ベトナム戦争が激しくなった時に徴兵された。その人の任務が今月終わったので、会社には彼を雇う義務が生まれ、キミを犠牲にすることになってしまった」

何ともタイミングの悪いことではあったが、私に対する会社の評価が良かったことが大事であると考え、感謝の言葉とともに会社を去ったのだった。

 

母校の大学院でMBAを目指す

「会社が経営難に陥っても仕事を失う確率が低いのが会計士」とパシフィック大学入学時に教えられ、それが会計士を目指すきっかけになっていたのに、入社してからわずか半年強で会計士の職を失うとは……。

米国公認会計士を目指すことに迷いを抱くようになった私は、1972年9月の新学期からハワイ大学の大学院で経営学修士= MBAホルダーになるための勉強を始めることにした(申請したら入学許可が出たのだ)。そこでホノルルへ移り、生活費を稼ぐためにアルバイトを始めた。
 
わずか7カ月とは言え、H&Sでの監査人としての経験は貴重だった。先輩公認会計士たちから親切に教えていただいた会計監査の仕事のイロハが、その後の私の基礎となっていることは言うまでもない。

 

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