各国の人々との交流を通じて肌で感じたことは、人間の善性でした。そのことを、このブログを通じてお伝えしたいと願っています。

ブラジルの2月

スペイン語は習っていたけれど……

1977年1月末までロサンゼルスで会計監査のサポート業務に従事した後は、ブラジルへ飛んだ。サンパウロ市に本社を置き消費者向けミシンの販売をしているブラジル子会社の、6週間に及ぶ内部監査。さらに同じサンパウロ州カンピナス市にあるシンガーミシンの工場における3週間の内部監査である。ヨーロッパ系アメリカ人の南米担当スーパーバイザーと、もう一人のヨーロッパ系アメリカ人、ウルグアイ出身のアメリカ人も監査に加わった(ウルグアイ出身者は通訳も兼ねた。彼曰くスペイン語からみるとポルトガル語のみならずフランス語とイタリア語も「方言」とのことだ)。

南半球にあるブラジルの2月は秋が始まる時期。とは言え赤道に近いため暖かかった。オフィスには日系ブラジル人が多く働いており、若い日系人同士の会話は公用語のポルトガル語。我々はマンションを借りてタクシーで通勤したので、運転手にはポルトガル語で道順を伝える必要があった。ハワイのラウパホエホエ高校ではポルトガル語と似ているスペイン語を学んでいたため少しだけ助かったけれど、南アメリカの多くの国々はスペイン語が公用語なのにブラジルだけが唯一ポルトガル語なのだった。

ブラジルをもっと知りたいと思い日系の社員たちと日本人街で昼ご飯を食べたていた際、最初はポルトガル語だったのにいつの間にか英語での会話になっていた。彼らはポルトガル語、英語、日本語の3カ国語が話せるので感心した覚えがある。

日本人街での日本料理は日本人からすれば常識的な量だ。けれど他のレストランは2人分と思える量が標準である。牛肉を中心に安くて美味しい料理が多かったけれど、半分を誰かに手伝ってもらわざるを得なかった。

第2次大戦中の日独伊移民たち

日系移民はもちろん、ドイツとイタリアからの移民もブラジルには少なからずいる。偶然とは思うけれど、第2次大戦で同盟を結んだ3カ国からの移民が多いのは不思議な縁だと感じたものだ。ちなみに日系移民には農園経営者が多いとのことで、ブラジルではお金持ちと見られていたようだ。

第2次大戦中、ブラジルやペルーなどの南米諸国に移住した日本人移民のリーダーたちは、ルーズベルト米大統領の要請でドイツ人、イタリア人とともに米本土の収容所に入れられた。その一つにテキサス州のクリスタル・シティー収容所がある。私が育ったハワイ島のパパアロア本願寺で戦前から働いておられた泉開教使とその家族も、この収容所に入れられた。次女の方は『クリスタル・シティー・ストーリー』という本を出版されたことをコロナ禍の最中に知った。パパアロア本願寺での泉家の平和な生活が、真珠湾攻撃を機に収容所生活に一変。その後の不幸な生活ぶりが事細かに綴られていた。読みながら、涙が止まらなかった。

日本国内の人々、戦地で命を落とした日本兵だけでなく、海外でも多くの日本人が悲惨な体験をしていたことを、どれだけの人が知っているのか? 過去の過ちは二度と繰り返してはいけないことを胸に刻み、今後は人間同士皆で一緒になって共通の敵であるウイルスとの戦いにエネルギーを注ぐべきだと自分に言い聞かせたものだ。

 

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